ESSAY

この文章はTIME & STYLE10周年を記念して配布する、小冊子に掲載した文を載せたものである。
 
 先日、偉大なミュージシャンが日米両国で亡くなった。一人は、1940年代からモダンジャズドラムの基礎を形成し作り上げ発展させた、モダンジャズドラムの父と称される男、マックス・ローチ。享年83歳。そしてもう一人、日本ジャズドラム界のみならず、日本ジャズシーンを牽引し推進させ、また己のハンデをものともせず最後までアーティストにこだわった男、富樫雅彦である。享年67歳であった。

こうして偉大な音楽家が次々と亡くなり、いつも思うことが一つあるのだが、それは、「世代交代」するいうこと。そしてそこに「世代交代」と関連する物凄い危機感を感じてしようがないのである。
自分は若くしてこの世界に入り、紆余曲折しながらもなんとかここまでやってこれたのは、色々な諸先輩方と演奏し、飯を食ったり酒を飲んだり騒いだり・・・。
そういった心の交流をもちつつも、酷い時は大声で怒鳴られ、いい演奏をすれば「最高」といってハグしてくれる。
そういう時間を共に過ごし成長出来たのは、「偉大な先輩方」のお陰と、つくづく思う。
が、しかし、そんな先輩方も何れは死んで行き(私もその一人)、残された我々は、嫌が負うにもその先のストーリーを作っていかなければいけないのであるが、最近芽が出てきた若手の世代というのは、その辺りをしっかり考え、目標を持って生きているのかが心配なのである。

次の世代。またその次の世代へと、音楽は確実に継承され発展したことは事実であるが、なにかこう、ゆっくり後ろを振り返ってみると、虚無感といった感覚に襲われるのは、なぜだろうと思う。
完全に日本のジャズ界は今、砂漠化しているように感じるし、それはどういったことかとよく考えるのだが。
いきなり売れたいと感じているのかもしれない。いや、確実に思っている。
ちょっとしたチャンスでステージに上がり、客のニーズに合わせて、バンド活動をしていく。いい容姿で、化粧をして、漫才のように客を笑わせたり。まあメディアもどんどん若くて扱いやすいミュージシャンを発掘しては煽って、音楽と関係ないところで、もてはやす。例えば、若さだけでやっていた奴がどんどん大人びた音楽をやるようになり、やがて中途半端な年齢になるとすぐ切ってしまう。

メディアにはそういった酷な面もあるが、今の若さだけを狙って金だけ儲けてハイさようなら、なんて酷い話だ。最近のライブ・ハウスも然りである。

ちょっと演奏出来ればすぐステージにあげてしまうし、音楽レベルの低い人間の集まった、それは音楽幼稚園のようなものである。毎日を日雇い労働者のように、ただダラダラ演奏し、適当に愛想良くして、金もらって帰る。何も目的も無く、ただ演奏してるだけ。もっと本音で語る人間が形成される、よい環境はないのか?現在、若い世代のミュージシャンは群れをなし過ぎている。痛みや責任を共有して、心に負った傷を少しでも和らげようと。しかし、大きな者の前では萎縮してしまって、動けなくなってしまい、自分の痛みや責任を何処にぶつけていいか分からないのである。

つまり、自分の痛みや責任の背負い方を知らないのだ。そういうことをボスから習得すればいいのに。さらには、「俺が責任をとる」という次世代のリーダー・シップをとるミュージシャンが育たないということでもある。
限が無いが、情報の氾濫もそうだ。

教則ビデオに専門書。はてはインターネットで全てそろってしまうくらいだし、映像なんかは、全部相手が喋ってくれるから、会話をしなくていい訳だ。そんなヴァーチャルな世界で習ってきた者が、実際にどれだけ本物に通じるか、分かってないのである。最悪なことに、そんなことでちょっと演奏できると、すぐこぞってライブハウスは出演させ、しまいにその演奏者は思い上がってしまうから、この悪循環はどうにかしないといけない。
一流プレイヤーに認められるのではなく、三流オーナーに認められ、育てられてしまう。
しかし悲しいかな、こんなミュージシャンばっかりになるのである。近い将来。
もう一度よく考えてほしい。
音楽という名の下に行われる、喜び、悲しみ、驚きや感動。そしてそこから育まれる、心と心の交流。
さらには人を敬う気持ちや、尊敬、感謝の念。それに伴う感情の起伏。
その時々の感情が、そのミュージシャンをもっと深い所に連れてってくれるのだと、僕は信じているし、今思えば、そういう事を先輩という素晴らしい「教科書」から全て教わったように感じます。


一人一人のミュージシャンが、いや、全ての人がさらに深い愛情を持って、この枯渇した世界に愛という「潤い」を与えることが出来るならば、もっと充実し心が豊かになって行くのではないか、と、最近富にそう思うのです。