2013年5月13日月曜日

日野元彦 命日

今日の5月13日はHighest Mountain、Over The Top、大先輩ドラマー、日野元彦の命日である。
1999年。享年53歳。今でも信じがたいが、無念の早すぎる死である。



 


六本木のアルフィーはトコさんの店である。
僕が初めてアルフィーに出演したのは、僕は20才からジャズを演奏し始めたので、たぶん21才とか22才頃。1991年とか92年とかの頃だったと思います。

今でこそ常識だが、大概ドラマーはシンバルとスネアなどは持参するものだけれど、ガキだった僕はスネア(しかもラディックの402!)しか持参せず、シンバルがジャズに大事なパーツという事を知らなかった僕に快く(と思うけど)セビアンのシンバルを貸してくれて、しかも気前がいい時にはシンバルを頂いたりしました。カップの裏にトコさんのサインがあるそのシンバルは、今では僕の宝物の一つとなっている。


その頃ボーヤは井上功一だったかな?藤山がやっと朝のピットインに出始めたころだったな。1987年のジャズイン浄土でトコさんとツインドラムをやった時は藤山がボーヤだった。




トコさん仕事ない時は、必ずアルフィーに来ていました。
演奏が始まると、店の端に席を陣取って、僕らの演奏に耳を傾けます。
ガキだった僕はそれが、プレッシャーに感じ、物凄く緊張していました。
あまりに露骨に緊張するものだから、わざと真前のパチンコ屋(よく負けてた!)によって、僕らの緊張が解け出すセカンドセットぐらいに顔を出す。そんな心遣いもある優しい大先輩でした。


しかし優しいだけじゃなく、的確なアドバイス、叱咤激励、(今風に言えば)ダメだしはしょっちゅうありました。また覇気のない演奏にたいしては、そのミュージシャンに激をとばしたりと、音楽、ドラム、に対して深く考えていた人でした。

オヤジとは、オヤジがまだ学生ぐらいの時から付き合っていたようです。
トコさんは十代前半からショー周りをしていた神童でしたから、その学生あがりの下手糞ピアノによく文句を言ったそうです。
2人が弘田三枝子のバックで一緒になった時があったらしく、その事をトコさんが僕に話してくれましたが、「ホンダは下手でさ、とにかくバッキングがなってなくて、よく怒鳴ったんだよ!ホンダ!ヤメロっ!!!って」

これはオヤジから聞いた話だけれど、弘田三枝子のマネージャーが神童ドラマーのトコさんと、下手学生あがりピアニストのオヤジとの扱いを格差つけていたらしく、ある日電車(勿論、新幹線じゃあないよ)で青森に行くことがあったのだけど、トコさんは指定席、オヤジは自
由席で、しかも混んでいたらしく、青森まで殆ど連結器のところで突っ立ってたそう。それを見かねたマネージャーがオヤジのところにきて、「これで美味しいものでも食べて」と500円を渡されたって。

その後の2人の活動、活躍はご存知の通り。
1990年には本田竹曠のジャズ回帰にトコさんが一役買って、本田名義の「Back On My Finger」という素晴らしいピアノトリオ・アルバムを制作。



僕がトコさんと共演したのが、神田のTUCにて江藤良人と3人で演奏したトコさんのドラムアンサンブル曲、「飛翔」が最後だった記憶があります。江藤と僕は本当にトコさんに可愛がってもらいました(泣)。


トコさんの奥さん容子さんが明かしてくれましたが、病床のトコさんが痛み止めのモルヒネを注入して意識が朦朧としている中、「珠也を呼んで来てくれ」と言ってたよ、と、そっと教えてくれたのがとっても嬉しかったです。





今でも思い出します。

あの甲高い声でこういう言葉が。

「珠也!違う!!!」

トコさん!本当にありがとうございました。

改めてご冥福をお祈りいたします。

珠也

P.S.
そんなトコさんの命日の今日。アルフィーで日野元彦メモリアルライブが行われます。
もちろんメインは、お兄さんの日野皓正さん。
飛翔した御霊に届くような、盛大なライブとなるでしょう!


http://homepage1.nifty.com/live/alfie/


 

2013年5月12日日曜日

本田竹曠 NY滞在記 Vol.1(?)

先日のアケタ出演時に演奏前、アケタのカウンター下に積まれてるジャズ雑誌を漁っていて、多分最新のジャズ批評を手に取りました。
で、それをパラパラ捲っていたらこんな見出しを発見!「JAZZ meets 杉田誠一 Vol.5 本田竹曠」という、杉田さんのコラムを偶然見つけました。


杉田さんは現在白楽に「ビッチェズ・ブリュー」という小さなジャズクラブを営んでいて、定期的にライブも行っていますが、僕は昨年に引き続き今年も竹内直さんの5DAYSに呼ばれまして、直さんとDUOをしました。

記事の内容は、現物をもって確かめて確認して欲しいのですが、僕のオヤジと僕自身をオーバーラップさせた内容となっています。
その昔僕ら家族は西武線沿線の下井草という駅に住んでいましたが、同じくして杉田さんも下井草に住まいがあり、オヤジともよく交流を持っていたようです。


それともう一つ付け加えておくと、1970年にオヤジは(鈴木勲氏と共に)渡米し、NYに2週間強滞在して本場のジャズを吸収していましたが、その時一緒に動向していたのが杉田誠一さんでした。
そのジャズ批評に一枚だけその時の写真が掲載されていたので、杉田さんには無断で申し訳ありません(汗!)が添付します。



僕もこの写真は初めて見たので、ちょっと嬉しくもビックリしました。
オヤジからはこの写真の逸話は聞いていましたが、写真があるとは!
場所はあの有名なジャズクラブ「ヴィレッジ・ヴァンガード」で、エルビンジョーンズクインテットにシットインした決定的瞬間の写真。
これでオヤジが僕に言っていた事は事実だったことが証明されたのでした(笑)。
オヤジによるとこの時はエルビンの他に、フランク・フォスター、ジョージ・コールマン、ウィルバー・リトル、チック・コリアが居たそうです。
曲は1曲だけで「Softry as in a Morning Sunrise」を演奏したと言っていました。しかも通常演奏される曲のKEYはCマイナーなのですが、その時エルビンは「Bマイナーだ!」と言ってBマイナーで演奏したんだ!って言ってた。


他にオヤジから聞いたNYの逸話は、スラッグスでリー・モーガンやブッカー・アービンを聴いたり、アートブレイキーの運転する車でハーレムを周回してもらったり、その時あるクラブに立ち寄ったらそこでフィリージョージョーンズが練習していたらしいのだが、フィリーは以前日本で「事件」を起こしており、その事を根に持ってるフィリーはオヤジの事を見てすぐさま「ジャップ!帰れ!」と罵られたそうです。

ソウホウの辺りではアーティストハウスが沢山あったそうで、そこでチック・コリアにピアノレッスンを受けに行ったとも語ってました。
だけど「チックの奴、ピアノを弾かないでドラムばかり叩きやがって!俺がアイツのドラムの伴奏してやったんだ!」なんて言ってな(笑)
でその後、ニューポートジャズフェスに出演する為にNYに来ていた渡辺貞夫グループに急遽参加して、演奏する訳です。

なんてオヤジが言ってた事を思い出しながら、そのジャズ批評を読んでいました。
どうぞ皆さんも手にとってその文を読んでください。


あっ、最後にこんな文があった。
「何故か。殆ど最後の無頼、松田優作に、珠也のドラムって同類項が、あるように思えてならない。そうそう、優作といえば、下井草駅前の西友でしばしば見かけたもの。」


なんだか無性に嬉しいぜ!


珠也